隠居生活

限界勤め人だった著者の隠居生活を綴ります

伯母さんの話

伯母さんは、学校を卒業すると就職のため上京した。

 

私の母が小さいころから、伯母さんは母に対して「私は両親に何もしてもらっていないから、恩義は一切感じていない。両親の面倒はあんたが見てね」と、口をすっぱくして言っていたらしい。

 

伯母さんは、日立製作所勤務の男性と結婚し、一人の子どもをもうけて、千葉の習志野市の戸建て(持ち家)で長い間暮らした。

伯母さんが結婚した男は、絵に描いたような飲んだくれおじさんだった。

 

仙台から新幹線に乗って千葉の伯母さんのところに遊びに行くと、いつもそこで待ち受けているのは、飲んだくれてクダを巻いているおじさんの姿と、おじさんに隠れておじさんの悪口を言う伯母さんの姿だった。関わるとやばそうな感じのおじさんだったので、自分から話しかけることは極力しないようにしていた。

 

伯母さんの息子(私よりも8歳上の唯一の従兄弟)は、高校を卒業したあと、フリーターになった。今も定職にはついていないらしい。(余談ではあるが、この従兄弟というのもなかなかにやばみの深い人物で、仙台に遊びに来たとき、私の母の現金を盗んで黙って千葉に帰るという所業を犯している。)

 

一方、私の母は女手一人で私を育てながら、祖父母(母からすると自分の両親)の面倒を見ていた。

(祖父母が夜中に救急車で運ばれるのに母と付き添ったのは、一度や二度ではない。)

 

伯母さんからは、毎月の仕送りというのがなかった。

 

年に1回か2回仙台を訪れた際に数万円置いていくほかには、祖父母が入院した際に15万円置いていったことが2度あるだけだという。

 

こう書いていて、私の母はなんとお人よしなのだろうと思う。

(お人よしも度を越えると……)

 

自分が両親の面倒を一人で見ることをどうしてそれほど自然に受け入れられたのか。

 

義務感ではなく、さもそれが当然という風に、母は自分一人で長い間両親を養い続けた。

 

祖父母に介護が必要になってから施設に入るまでの間(10年以上あったと思う)、母は介護も懸命に行っていた。

 

母が体調を崩して自身も手術を受けたりしているうちに、介護が限界になり、祖父母は特別養護老人ホームに入ることになった。

 

私の母の人生は、子どもである私と自分の両親を常に優先し続けた人生だったと思う。

 

***

 

伯母さんのことに話を戻さなくてはいけない。

 

伯母さんの夫(飲んだくれおじさん)は、日立を早期退職したのち、清掃の仕事をしていたが、ある時点で仕事をきっぱりと辞めて、「究極完全態・飲んだくれおじさん」になったのだった。

 

そして、やっぱり酒が原因で、夜中に外で倒れて意識を失い、帰らぬ人となった。61歳だった。

(暑い夏の日に、千葉の伯母さんの家で、息を引き取ったおじさんの足を持ち上げたあの日の情景を忘れられない。)

 

天下の日立で曲がりなりにもン十年と勤め、早期退職プログラムに乗って退職したおじさんには、相応の退職金が入っていたはずだ。そして、伯母さんはその一部を相続するとともに、遺族年金の受給権を獲得した。

 

おじさんが亡くなったあと、伯母さんは千葉の戸建てを売り払い、遠い親戚にあたる人たちの住む栃木に家を新築した。数年前には、自分とフリーターの息子のために新車を2台購入したらしい。リッチだ。

 

一方、私の母は、資産をまったく持たず、手塩にかけて育てた息子から、「仕送りが厳しいので生活保護を受給してほしい」と頼まれている。

 

この差は一体なんなんだろうか。

 

***

 

なぜこんなことを書く気になったかというと、施設で暮らす祖母があと数日ともたない状態なのだ。昨日、母から連絡があった。

 

母が何も言わず、伯母さんが何も言ってこなければ、葬儀に関わる費用の全額を私が負担することになるだろう。

 

もちろん、祖母には本当にお世話になった。かけがえのない家族だ。

 

しかし、孫である私が金銭的な負担をすべて引き受けるのは、少し考えれば(あるいは考えなくても)わかるとおり、おかしな話ではないだろうか。

 

母には出せる金がそもそもない、一方の伯母さんはこれまで金をほとんど出してこなかったし、出せる金がある。

 

誰がどう負担すべきかは、明白だろう。

 

祖母はもう食べ物や飲み物を摂ることができなくなった。

 

施設の方針もあり、延命措置は行わず、祖母は老衰による死に向かっている。

(母は、祖母の入所時に施設の方針への同意書にサインしている。)

 

そのときは刻一刻と近づいているというわけだ。

 

明日、母とともに寺に相談に行ってくる予定です。

 

そして明日の夜に、私から伯母さんに葬儀にかかる費用を伝える予定です。

 

この記事を書いているのは、2020年12月5日(土曜日)ですが、明日がどうやら散々な日曜の夜になりそうだということは、ここまで読んでいただいた方にはわかっていただけるのではないでしょうか。