隠居生活

限界勤め人だった著者の隠居生活を綴ります

怒るのではなく呆れよ

お疲れ様です。隠居芸人です。

時に猛烈に怒りが沸いてくることがあります。

なるべく怒りとは無縁に過ごしたいものですが、なかなかそうもいきません。

昨日は、職場にいる新卒1年目(23歳)Aさんとのやりとりで猛烈に心が乱れました。

怒りの背景にあるのは相手への期待だと考えられます。

「今度はきっと約束を守ってくれるはずだ(守ってほしい)……」「これだけ言って聞かせたのだからこちらの求めるレベルで成果物を提出してくれるはずだ(提出してほしい)……」

そんな風に期待をもって人に接し、予想どおりの結果が得られなかったとき、人は悲しくなって怒るのではないでしょうか。

上の例で言えば、約束を守らせる仕組み、要求する水準以上のものを出させる仕組みについてPDCAサイクルを回していくほかないはずです。

にも関わらず、勝手に期待して結果が伴わらないから怒るというのはいかがなものでしょう。

一方で、相手への期待を一切持っていなければどうか。

初めから期待していなければ、怒るというより呆れるだけです。

そして注目すべきは、怒るよりも呆れる方が肉体的・精神的コストがずっと小さいということです。

怒りによって心身ともに消耗するのは、たいていの場合、割に合いません。

この度の職場で起きた一件から、私は「怒るのではなく呆れよ」という教訓を得ました。

他人に対しては怒るのではなく呆れること。

これが自分を守る方法でもあるのだと。

「大人になると誰も注意してくれなくなる(注意してくれる人をありがたく思いなさい)」

よくそんな風に言いますが、注意する側の視点に立てば、相手に嫌われたり自分が不快な思いをしてまで注意するメリットがないから注意しないわけです。

怒る場合も同じです。

要するに、怒ることは損なのです。

他人に対して怒りを感じることがあるかもしれませんが、ただちに呆れた方が自分にとってはずっと得です。

その意味では、怒ったり腹を立てたりするのは、あくまで自分自身(の不甲斐なさ)に対してだけでいいでしょう。

それでも他人に対して怒るというのならば(怒る価値があるだけの相手なら)、そのときは100%相手のためになる怒り方をしたいものです。

言うまでもなく、そのことによって自分が嫌われたとしてもです。

それほどの覚悟をもって怒ることができたとき、怒りはきわめて有用で意味のある感情となるのかもしれません。

「感情は使いよう」ということでしょうか。

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