隠居生活

限界勤め人だった著者の隠居生活を綴ります

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している

お疲れ様です。隠居芸人です。

最近は定時退社が続いています。少し前までの残業ラッシュが嘘のようです。

やった方がいい仕事は残っているのですが、思い切ってうち捨て、帰るようにしています。

意識的に危機感を鈍らせ、明日に託すのです。

時間をかければかけるほど良い仕事ができるなどというのは、基本的には信じません。

定時で帰るようになってもうすぐ2週間が経ちます。

生活リズムが前倒しになり、朝起きるのが段々と楽になってきました。

自然と出社時間も早まり、昨日などは普段より2本早い電車に乗りました。

朝夕と余裕をもって過ごせることはそのまま心の余裕につながるようです。

心なしか、仕事もサクサク進みます。

ちょっと前であればもっと時間をかけてあれこれ悩んでいたようなことも、即決・脊髄反射で対応する癖がつきつつあります。(一長一短)

日々が過ぎていきます。

今年で30歳になるかと思うと、少し感慨深いものがあります。

何も達成していないと感じる一方で、やるべきことはすべてやり終えたような気もします。

最近、確実に老いを感じる機会が増え、29歳になってようやく人間の体が消耗品なのだということを理解しました。

それまでは、いくら使っても、どんな使い方をしても自分の体が衰えてすり減っていくなどとは信じられませんでした。

「1~2日ゆっくり休めば全回復」が当たり前でした。

しかし、今はそれが少しずつ当たり前ではなくなってきています。

疲れは積み重なり、呪いのように心身にまとわりついて離れません。

その呪いが溶け込んで、自分の心や体が少しずつ病んでいくのがなんとなくわかるのです。

内臓、骨、皮膚、髪

自分を構成するあらゆる部分が少しずつ老いていくのが、体の訴えに耳を傾けると、本当に自分でも驚くほどよくわかります。

村上春樹は『ノルウェイの森』という小説のなかでこう書きました。

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」

死は突然やってくるものではなく、影のように常に自分自身と共にあるということです。

それがゆえに、生のありがたみを感じるところでもあります。

日ごろ当たり前と受け止めていることは、決して当たり前ではないのだと思います。

必要十分なだけ手にしていても、多くの人は現状に満足できないでいます。

人と比べることで自分はまだ足りないと嘆きます。

私にもそういうときがあります。

欲望はとどまることを知らないのです。

そしてそれが人間なのだと思います。

人間の深い業。

今日も世界中で欲望のエンジンがうなりをあげています。

それによって人類は発展してきたし、これからも発展していくのでしょう。

私は欲望のエンジン音が聞こえないように耳をふさぐか、聞こえないフリをしながら、静かに隠れて暮らしていきたいと思います。

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