隠居生活

限界勤め人だった著者の隠居生活を綴ります

最期から逆算する

f:id:inkyoworld:20210403234925p:plain死が頻繁に頭をよぎります。

 

このところ、特に布団に横になってから寝るまでのひととき、死に怯えています。

 

(表現がやや不適切かもしれませんが、)自慰を覚えたての猿のごとく、毎晩ひとりメメント・モリしています。(本当に不適切だな……)

 

今にも自分の手足に裂けるような痛みが生じ、そのまま絶命するのではないか……

 

手足が自分のものでないような感覚に陥るのです。

 

●3/13(土)祖母の百か日法要

仕事とかぶってしまい、出席できませんでした。そこで、母にお願いし、私の分まで焼香をあげてもらいました。風が強く、あいにく雨降りの一日でした。

 

法要に参加しなかった罰か、私は仕事から帰る途中に滑って転倒してしまいました。右手に傘、左手にスマホだったのですが、スマホをもろに地面に打ちつけてしまい、衝撃で液晶が割れ、スマホの画面が映らなくなってしまいました。そこで、同機種の端末を購入。臨時で1万円が飛んでいきました。お寺に出すお布施で1万円、中古端末に1万円、トータル2万円の臨時支出です。アイタタタ……。支出記録の平準化のため(なんじゃそりゃあ)、家計簿には4~12月に分割して計上しました。

 

靴の中は浸水していてぐちゃぐちゃだし、スマホは画面がうつらないし、寒いしで、最悪なメンタルのなかやっとの思いで帰宅、それから食料品の買い出しに出かけました。

すると、今度はスーパーの駐車場を歩いているときに目の前の車に思いっきりクラクションを鳴らされるというアクシデントに遭遇。心臓が止まりかけました。

 

まさに、泣きっ面に蜂。

 

運転手のお父さんが子どもを前に抱えていて、子どもがふざけて全力押ししたようでした。

 

本当に、本当に、あれは寿命が縮みました。

 

法要に行かないとバチが当たるのか……

 

次の法要はというと、1週間後の3/20です。春彼岸。

 

そこでも塔婆料×2(祖父&祖母)とお布施を「とられ」ます。やれやれです。どう思いますか?このシステム。しんどすぎるでしょ……。

 

百か日でトータル数万円吹っ飛んだ一週間後に、また数万円飛ぶっていう。

 

1周忌までは、塔婆は祖父と祖母それぞれ必要だそうで、以降は祖父&祖母で1本(1枚?)になるそうです。

 

春彼岸と秋彼岸に、〇周忌。

 

ってかなんで祖父母の法要の金を孫が出してるん?

 

これが生まれってやつですよ……

 

罰当たりかもしれませんが、私には非常に大きな負担に感じられます。やってられない、と。

 

私は寺にお世話になるのは死んでも御免です。(ジョークのつもり)

 

私が死んだら、生まれた県の桜の名所として知られる某S川に散骨?してほしいと思っています。

 

同居人との思い出の場所です。

 

穏やかな春の光を浴びながら、桜と某S川を眺めるのが本当に好きで、毎年訪れる特別な場所です。

 

どうせならあそこに自分の骨を撒いてほしい。この記事をもって私の遺言とします。

 

私の骨を桜の地、S川に撒いてください。あの歩道橋からドサッとやりましょう。

 

できたら天気のいい日にお願いします。水面が日の光をキラキラと照り返しているそんな日の、暖かい時間帯に。

(散骨について法的な制限はなさそうですが、条例でNGになっている場合があるようなので、死ぬ前には調べておきたいな……)

 

でも、誰がやってくれるんだろう。誰が自分を看取ってくれるんだろう。

 

 

●ホワイトデーのお返し

本日はホワイトデーだったので、同居人にうなぎをごちそうしました。「T亭」といううなぎ屋の「もみじ弁当+お吸い物(肝吸い)」です。私は某寿司屋の弁当を注文し、持ち帰って家で二人で食べました。毎月1回は同居人とうなぎを食べに行けるくらいの生活レベルを実現したいです。

 

同居人が喜んでくれてとても嬉しかったです。こんなことで喜んでくれて本当にありがたい限りです。勢いで、「5年経ったら毎月連れていく」と誓ってしまいました。だから二人で今は頑張ろうと。(あと5年は雪だるまの芯づくりのため労働節倹投資の日々が続く。)

 

 

●最期から逆算する

人間の幸福ってなんでしょうね。地位・名誉、社会貢献、お金、異性からのモテ。どれもそれっぽいです。「幸福な人生だった」と最期に本人が思えたら、それこそが当人にとっての(ある意味で究極の)幸福かもしれません。だとしたら、最期がどうであったら幸福か。そんな自問をせずにはいられません。

 

ちょうど1年くらい前、一回り以上歳上の職場の先輩と外回りをしているとき、先輩がそんな話をしていました。

「Aさん(上司)は会社のなかでは『出世』という形で成功したかもしれないけれど、皆からはどう思われてる?周知のとおりAさんの家庭はお世辞にも順風満帆とはいえない。隠居君に言いたいけど、仕事だけが人生じゃないよ。人生、死んだときにどれほどの人が自分の死を悲しんでくれるか、じゃないかな。最期に気づいても遅いと思うんだ」

たしかこんなようなことを先輩は言っていたと思う。「Aさん」の人間性がお世辞にも褒められたものでない点には共感しつつ、当時の私には、役職が上がらない先輩の「Aさん」に対する僻み(ひがみ)に聞こえたものです。

しかし、今になって振り返ると、この話で大事なところはAさん云々のくだりではなく、「最期から逆算せよ」ってことだったのだと思います。

 

どんな最期を思い描くか、そしてそこから逆算してどのように生きるか。

たぶんそれは、単一の要因で決まるような話ではないと思うんですよね。

悲しんでくれる人が多いから自分が満足して逝ける、そんな単純な話でもないような気がします。

今際の際(いまわのきわ)に、振り返って自分の人生に納得できるか。

その意味では、Aさんが幸福でないなどと他人が外から決められるものでもないと思うし。

今が順風満帆だからといって、最期に納得できるかどうかはわからないし、今が悲劇的だからといって最後に納得できないと決まっているわけでもない、はず。

 

あー生きていこう。生きていこう。